『君たちはどう生きるか』
この仰々しいまであるタイトルが宮崎駿監督の新作として公表されてから5年以上が経った。
その間、高畑さんのこともあったので、1年、また1年と過ぎる度、本当に完成するのだろうか?と、勝手に心配しつつも、鈴木敏夫さんのラジオ番組を聴く限りでは、良い仕事に仕上がっており、本人の意欲も高いことが伺えたので、一体どんな作品になるのか期待は大いに膨らんでいった。
話は脱線して、自分はどう生きて来たかを思い返せば、逃げて、戦って、怒って、泣いて、その瞬間燃え上がる物に身を任せ続けた人生だった気がする。何も格好の良いところなど無い、良い格好して見せても最後は締まらない中途半端な男として、今もなお現在進行中だ。
勿論、それは自分の評価であって、他人から見てどうかは分からないし、そんなことを誰かに聞く(俺ってどう?)気にもならない。兎に角はっきりしてるのは、純粋な何かをどんどんすり減らし、愛想笑いを浮かべるのに限界が来た時、唐突に怒り出すだけの草臥れたおじさんに成り下がったと云うこと。それは社会や家族に求められることがどんどん増えて来たせいでもあり、自らの心身が老化の一歩を辿っているせいでもあり、それをなんとかするだけの器量が無いせいでもある。ひたすら残念としか言いようがない。
子供の頃は、本人の無知と他者の保護のお陰で、無責任かつ自在なひらめきが可能だった。”どう生きる”か考えるだけでも、じっくり過ごせてしまうほどの活力があった。正直今は、どう生きるかなんて考えている暇すらない。今日を生きるのが精一杯だからだ。明日、明後日、来月、来年、10年後、20年後、そんな設計出来る気がしない。
ただ、それだけはしたくない、これだけは守りたい、そう云う気持ちはちゃんとある生き方はしてきたし、これからもそうするつもりだ。あっという間に過ぎ去る日々の中で、大事なことを忘れそうになった時、ちゃんと思い出せる自分でありたい。
これがきっと、自分にとっての”どう生きるか”なんだと思う。
予告も流さなかった『君たちはどう生きるか』に関して、詳しく語るのはやめておく。一つだけ確かなことは、宮崎駿と云う男が、背中で語る”どう生きるか”が、凝縮された作品だったと云うこと。とてもじゃないが、80代が作り上げる映像ではない。無論大勢の凄腕スタッフが居るからこそ可能な作品だが、”彼”の元で無ければ、集まるはずもないことなので、それだって彼の実力と言って過言ではないだろう。
だから、個人的にはストーリーそのものより、エンドロールで協力した様々な個人、組織の名前を眺めている時の方が涙が止まらなかった。これだけの人達が、宮崎駿と云う男と仕事をしに来た事実に胸が熱くなった。
タイトルの時点で、説教くさい内容を想像し、見に行くのを躊躇っている人も大勢いるだろうが、それこそ自分の生き方が問われている瞬間なのかもしれない。説教臭さなんてほぼ感じ無いし、ジブリで育った者であれば、きっと何かは得られるはず。見る後悔より、見ない後悔の方が、先々残り続けることだろう。
次は無いかもしれない。
そんな思いで劇場へ向かったせいもあるが、なんだか全体的に厳かな雰囲気はあった気がする。
次が有ろうが無かろうが、宮崎駿おじさんには、最後の最後まで、作りたい物を作って逝って欲しいものである............