無差別八方美人?

全然無差別じゃないおじさん、はてなブログに引越し中です。

胃袋が死なない限り、俺は死なない「孤独のグルメ」

 昨日、仕事をしていたら、親会社の誰某が自殺したと聞いた。以前から、現場と経営の板挟みになっていた人らしく、この春に人事異動させられるタイミングで川に飛び降りたそうだ。
 ”ありがち”と切り捨てるのはあんまりだが、この日本じゃありふれた自殺理由過ぎて溜息しか出ない。その人からしたら「これ以外に道は無い」という所まで辿り着いた結果の飛び降りなのかもしれないが、その一歩踏み出す行動力を別の方向に向けようとは何故考えないのか?と、僕などは思ってしまう。
 子供の自殺であれば、狭い世界が全てと信じ込んで命を絶つこともあり得ることだが、何十年も生きていれば、人間死ぬ気になればなんでも出来ることに気づくはず。無論、いきなりプロ野球の選手になるとか、アイドルになるなんてことを言っているのではなく、例えば素っ裸で銀行に押し入って「金を出せ!」と股間の凶器をぶらつかせながら大声を出して見るとか、自分を苦しめた上司にあ〜んなことや、こ〜んなことをやってあげるだとか、自分を殺すより先にやれることが沢山あるはずだ。
 まあ、何を言っても”僕”がそう思うだけで無意味でしか無いのだけど、最近観始めた「孤独のグルメ」で”井之頭 五郎”が仕事や私生活で冴えない事が続いても、美味い物を喰っている瞬間だけは全てを忘れて箸を動かしているのを見ていると、こうして美味い物を味わえるのも生きているうちだけなのだから、死ぬのはもう少し後でも良いんじゃないの?と、言いたくなってしまうのだ。どうせ放っておいても僕らはいつか死ぬ。せっかく拾った命を雪解けで増水した川にわざわざ投げ捨てる必要なんて何処にも無いのだ。
 まだ電脳も義体もありはしないし、クローンに自分の脳を移植したり、DNAを改変して長寿を叶えることも人類は出来ていない。もしかしたら、絵に描いた餅ではなく、実際に何百年、何千年、もしくは永遠に生きる事が出来る未来があるのかもしれないが、それを確かめる術は、おそらく無い。それに、もしも死なない人生なんて物にありつけたとしたら、今よりもっと退屈で苦痛な日々が訪れることだろう。「いつか死ねる」からこそ、今を僕らは生きられるんじゃないかと思う。そういう意味で言うなら、生きるだけ生きて自分から死ぬのなら良いとも言える。でも、「もう1杯あの時のご飯が食べたかった...」と、いくら思っても手遅れである飛び降りを実行するのはおすすめ出来ない。重力は急に反転しないのだから。
 こういう話をする時、僕はいつも「フランダースの犬」の話をする。毎日毎日苦しいことばかりで、たまに良い事があってもどんどん追い込まれていったネロが、とうとう精魂尽き果てて教会で死んでしまうが、その裏で彼の絵に才能を見出した人が現れていて、後1日、後1日耐えられれば180度人生が変わったのに!と、それまで頑張って来た全てを投げ出して天使に運ばれるネロへ悲しみ以上に怒りが湧いてしまうのだと。
 ロマンチシズムは個人レベルでは気持ち良いものだろう。もしかすると僕が思う以上に自殺者は安らいだ気持ちで亡くなっている可能性もある。しかし、そんな物を見せられた側からしたらたまったものでは無い。ただ知り合いが死んだと聞いただけでも気持ちがぐらつくのだから、死体を発見した人、処理した人、そして身元を確認した身内のショックは想像するに難く無い。自殺とは一番エゴイスティックな生き方なのでは無いかとさえ思えて来る。
 先ほども言ったが、人様のことをあーだこーだ言っても仕方ない。せめて自分だけは「明日何を喰おう?」と些細な幸せを思い浮かべながら今日も生きて行こうとつくづく思った。