いつものように朝起きて、あれこれと準備しつつ、そういえば昨夜アイルトンの事故について特集した番組を録画しておいたのがあったなと朝食を食べながら見始めたのだが、様々な人達がセナについて語る様子に涙を堪えられず瞼が腫れぼったいまま会社である。
近い場所でセナを見守ってきた広報官の女性や、バッジョがPKを外しワールドカップ優勝を決めた時、セナを讃える横断幕を掲げたブラジル代表選手達。セナ亡き後、ブラジル国民の期待を一身に受けて苦しみもがいたバリチェロ。そしてセナの遺体と唯一対面した日本人記者。彼等がセナから受け取った物の大きさを想うとまた泣けてくる。
本当に必要とされていた
本当に愛されていた。
本当に速かった。
でも、僕らと同じ人間だった。
ただ少し違ったのは、誰よりも速くありたいと言う強い気持ちと、繊細過ぎた感性。
大抵誰しもひたすら目標へ真っ直ぐ向かっている時は歯車がしっかり噛み合うもの。だが一度それが乱されるとまるで機能しなくなるものである。だから、セナのような大胆かつ繊細なドライバーが少しでも心を乱したりすれば、それこそ走りに大きな影響が出るはずだ。
セナの事故からだいぶ経った今だから言葉に出来ることかもしれないが、事故でセナが亡くなったと知った時、心の片隅にこれはセナが望んだことなのではないか?という気がしていた。
バリチェロとラッツェンバーガーの事故が起きた直後、このグランプリへの不信感を露わにしていたセナの精神状態からして「ほらやっぱり危険だったろ?」と、わざと自分が事故って見せるくらいのことをして見せたのでは無いか?という考えが浮かんだのだ。事故の真相もはっきりしなかったため、尚更そんな発想が湧いたのかもしれない。
でもきっとそれは違う。単純に戦う準備が出来ないまま戦場へ脚を踏み入れたことが大きな原因だったことだろう。起こるべくして起きて、たまたまそれが取り返しの付かない結末に繋がっただけなのだ。
あれからF1はより速く、より安全になった。
ドライバー達は心の準備が整わずとも、それをマシンがサポートするから平気で戦えるし、誰かが傷つく恐れもほとんど無いから僕らは安心してレースを観ていられる。僕らに心の準備は一切必要無い。
だが何の憂いも無いはずのF1は何処か味気ない。
そこにセナが居ないからでは無い、おそらくマシンが電子制御され過ぎたため、ドライビングからドライバーの個性が見え難くなったからだと思う。
ルールの枠内で限界を目指せば誰もが同じ答えへ辿り着くのが当然ではあるけれど、それでは最後に行き着く場所に人間は不要になってしまう。
人馬一体という言葉が乗馬にはある。文字通り人と馬が一体になったかのように見える様子を表した言葉だ。
異なる種族。異なる魂が共鳴しあって成し遂げる人馬一体とは少し違うけれど、F1だって大勢の想いが同じ方向を向いた瞬間の一体感は素晴らしい。あくまでも機械は道具、魂と魂とが織りなす情景だからこそ胸が熱くなる。
だから機械の進歩と共に個性が死んでゆく今のF1が切ない。まだ人が機械を制していた時代の英雄の死は、僕にとってのF1の死そのものだったのかもしれない。
何をもって「魂」とするかは、これから先難しくなって行くかもしれないけれど、セナを忘れずにいられたら、自分の魂の在処だけは見失わずにすみそうな気もする、是非そうありたいものだ...
どうでもいいが真木よう子の司会っぷり堅すぎて微妙であった....