無差別八方美人?

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許せぬ真実、許せる嘘「神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned? 」森博嗣(著)/講談社/感想

人間は暇さえあれば嘘を吐く。家族に上司に友達に。
心の構造上まるで嘘を吐けない人も稀にいるが、基本的には自覚無自覚を問わず誰でも都合に応じて嘘を利用している。幼い頃は”それ”自体に罪があるかのように、嘘塗れで矛盾した大人を蔑み「自分はそうはならない」と思いたがるものだが、結局のところ同じ穴のムジナだったのだなと知る日が来てしまう。
果たして”嘘”は存在してはならないのだろうか?巧妙な嘘より、拙劣で「嘘だろ?」と言いたくなる本当の方が余程害悪ではないのか?少なくとも本当だけで全てを回そうとしたら、人間社会は今以上に雁字搦めで円滑に進まないことだろう。誰かが嘘を吐くことで、何億もの人類が狭い地球で共存することが叶っているのだと断言できるほどに。要は嘘も本当も使い方が大事なのだ。
中国のみならず広がりを見せている新型ウイルス関連のニュースにしてもそう、本当に心配が必要ない状況であるなら、ハッタリでも「大丈夫」と政府は言うべきである。間違いなく季節柄流行るインフルなどの比ではない致死率(中国で2%前後)ではあるが、ここまで拡がってしまったなら恐れず乗り越える(感染して免疫つける)しか無いとさえ思う。一生家の中に引き籠もっているわけにもいかないのだから。
本書のようにリアルな仮想空間が存在する社会であれば、こんな鬱陶しいニュースを目にすることもなく、延々と現実逃避していられるのだろうか?いや、生身があるうちは”ままならない”ことの方が多いに違いない。アリス・ワールドという仮想空間で突如システムがダウンし、強制的にログアウトさせられた人の中には悲観のあまり自殺してしまう人まで出てしまうという展開にも妙な現実感が有り、仮想世界だからと云って終わりが無いわけではないのだと改めて思った。
攻殻機動隊以後、そんな風に言いたくなるほど現代日本人は仮想空間への憧れが強い。現実での身体的な差を仮想の中でなら埋めることが出来るし、執着心があれば特別な存在として周囲に認められることも可能だからだろう。しかし、実際にはリアルだろうがヴァーチャルだろうが、埋めることの出来ない差は生まれる。それは金銭的にもそうだし、純然たる頭の出来でもそうだ。場所が変わっただけで優劣は消えはしない。隕石が落ちれば終わる世界と、電源が落ちれば終わる世界と、果たしてどちらが信用に足る世界なのか?
仮想空間を管理する人工知能とのやりとりで、何が望みでこんな事態を引き起こしたのか聞き出そうとする主人公達に突きつけられる呆気ない現実。それを少し寂しいと感じてしまった僕は、きっと仮想世界に生きてみたい人間なのだろう。そして人の手を離れた存在が引き起こす大惨事という物語は数多あるにも関わらず、意志を持った人工知能が居て欲しいのだろう。嘘みたいな本当だらけの世の中じゃ、本当みたいな嘘の需要が高いのも必然に違いない。
人は嘘が大好きである。僕も森博嗣さんの嘘が好きだ。木を隠すなら森の中、でもないが、延長線上にある社会に現在を盛り込む匙加減がなんとも云えない。嘘を許容出来るかどうかは、吐き手の技量にかなり左右されるものだ。政治家だってそう。詰めが甘い人の嘘ほどガッカリさせられるものはない。
限りなく本物に思える嘘が欲しい。それが僕の本質で、それが人間なのではなかろうか?