大なり小なり、誰でも大抵は自分の存在を周りに認めて貰いたい欲求を持っていると思います。
どんなに自分が努力しても、自らの視点から成果を実感するのは難しく、第三者による違う角度からの反応により初めて自分の価値の裏付けが出来るからです。
無論そんな裏付けだって賞味期限が過ぎると効果は薄れ直ぐに輪郭がボヤけてしまう。だから常に自分の形を確かめようと我々はなんらかのアクションを第三者の前で繰り返します。
大衆受けする本を書いたり。海外サッカーでゴールを決めたり。テレビの中で嘘くさい笑顔を作ったり。
時には人を殺してニュースに取り上げて貰ったり....
自分に価値を見出して死ぬ前に『何か』を残そうと考えるのは、”本能”の成せる技だと言われたりもしますね。だから誰かと結婚して子供を作り会話する事が1番早くて正しい『自分の残し方』かもしれない。だがそれが出来ない人や、それじゃ満足出来ない欲深い人は、何百、何千、何万人でも足りず、なるべく多くの人々の心に入り込もうと画策します。まるで癌細胞のように。
昨夜観たドキュメンタリーもどきな映画も、一人の落ち目な監督が世の中に忘れ去られたく無い一心で起こしたアクションの一つでした。
このドキュメンタリーを自作自演した”キム・ギドク”と言う人は、世間から鬼才だの異才だの騒がれ、世界的にもファンが多い監督だそうだ。
「だそうだ」と言うだけあって、僕は正直彼の作品を観ていないと思います。暴力的だったり性的だったり、内に籠り続けた想いを自棄っぱちにぶちまけたような作風だと噂に聴いた程度の存在でした。
なのに何故彼のドキュメンタリーを観る気になったのか?
単に日本でこの「アリラン」の公開決まった時期に、非常に上手くギドク氏を持ち上げた作品紹介記事をたまたま読んでしまい、うっかり騙されたと言うのが本当のところな気もしますが、こんな恥部を晒しただけの自画撮りを世界各地で上映して貰える男に興味が湧いたからかもしれません。
しかし観始めると”それ”は想像以上に強烈でした。ボロ小屋で世捨て人のように汚い身なりで生活する男がただただ自問自答や恨みつらみをカメラの前で繰り返すばかりの内容なのです。ハッキリ言って犯罪者が自分の凶行を肯定したいがために事前に撮った動画のような陳腐さでした。キム・ギドク作品や彼の人となりを知らない人にはポカーンな内容なのです。
ただ、何処までが狙いで何処からが本心なのか判別し難い彼の真剣さには引き込まれるものが有りました。映画を撮りたいけれど満足の行く映画を作れる自信が持てない自分の素直な気持ちを、複数の”自分”同士が対話する構成で成り立たせているのが意外と面白いです。結局最後は自分の自信を打ち砕いて去った連中を巻き込み自殺し、今までの自分とオサラバすると言う感じで終わるので、なんだかな〜としてしまうのは変わりませんけどねw
しかしよくもまあこんな私的な作品を配給会社は上映を決めたものだと思います。よほどキム・ギドクと言う男に惚れ込んでいるのか、話題性で儲かると踏んだのか分りませんけど大した度胸ですよ。
自分が映画を撮り続ける理由を裏付けしようと足掻いた結果、彼は2012年の「嘆きのピエタ」で金獅子賞を手にしたわけですし、その賭けは正しい選択だったのかもしれません。まあ本当に良い映画かどうかまだ観ていないのでなんとも言えませんけどね.....
ここまで自分を周りに認めさせたいと強く願い実行する人は怖いものがあります。本当に犯罪者と紙一重な存在に感じて嫌悪する半面、彼のように強く自分を晒す生き方に憧れる自分がいるのも確かです。
彼の今後も気になるが、まずは自分がどう生きて行きたいか。それを見つめ直さないといけない気持ちで一杯になる作品でした。
とりあえずピエタ観てみたいな.....