本にしても映画にしても「もしも」自分がこの物語の登場人物だったらと、僕は自然と考えてしまう。無論僕だけではなく大勢が同じように考え、存在しない誰かのドラマに泣いたり笑ったり一喜一憂しているに違いない。
物語は、確実に誰かの糸<意図>で操られ進行してゆく。それは直接書いている人に留まらず、スポンサーやファンの意向が反映されることもあれば、架空のはずの登場人物たち自身が勝手に筆先を動かすこともある。特にキャラが良く立っている作品や、シリーズを長く続けているとそういった傾向にあるように感じます。このキャラにはこう言わせよう書いていたはずが、このキャラならこう言うはずだになってゆき、徐々に書き手の中で高まった愛着が弊害になって、終わりの無い夢に迷い込んでしまうケースもあるのではないだろうか?
なかなかキャラを解放しない迷宮入り作品には、それはそれで喜ぶファンが多いけれど、無理やり延命処置を施しているのは事実なので、大抵は不幸な老後を過ごすことになっているように思えてなりません。子供の頃から知っている漫画やアニメを久しぶりに目にしたりすると、必然である事象を曲げずに終わらせるのが大事なのだと思ってしまいます。
そんな割り切った考えを是とすると、SF小説における物語と登場人物達の生死というのは、実に逃れようのない数式の中で決定付けられた物になっていてしっくり来るかもしれない。
小説を書いているのだから文系、という安直な枠組みに収まらないSF作家達は、理系寄りの脳内構造であるからこそ、命を有るべき姿に還すのが上手なのだと思う。なんでも有りなSF作品であっても、客観的に分析し命の循環の必然性を冷静に受け止め、生と死を等価値として書いてくれる。「天冥の標」で何世代にも渡る命のバトンの行方を書いている”小川一水”さんも、そんなSF作家らしい命の扱いをしている方だったから大好きになりました。
8つに及ぶシリーズ一つ一つで異なった表情を見せる天冥の標の中で、何度思い入れの湧いた登場人物が死んでしまったことか.....けして足早にならず、じっくり人物背景を描写するため、死の重さがズシんと伸し掛かって来るのです。
あと2つシリーズが刊行されたら完結予定の天冥の標。どんな形の終焉になるにしても、キャラの一人歩きや、作者の未練で骨抜きにならないことだけを切に願います。まあ、素人風情が心配する必要なんてまったく無いと思いますけどね。
兎に角、今一番先が楽しみであり、終わって欲しいけど終わって欲しく無いと心底思える「天冥の標」共々、これからもちゃんと命が循環するSF作品を愛してゆきたいです。